失われた数学的直観の回復Recovering Mathematical Intuition
Phase 1 / Linear Algebra

逆行列

元の座標へ戻すとはどういうことか。戻せる変換と戻せない変換の境目を、基底変換・情報喪失・逆像への入口として整理する。

Webページ作成日時:2026-06-12 12:46 JST Webページ最終更新日時:2026-06-12 12:56 JST
目次 0. このページの位置づけ 1. なぜ逆行列が出てくるのか 2. 逆行列とは何か 3. 単位行列とは何か 4. 基底変換と逆行列 5. 戻せる変換とは何か 6. 行列式が0だと戻せない 7. 逆行列と逆像は違う 8. 次に進むこと

0. このページの位置づけ

このページでは、基底変換のあとに出てきた逆行列を扱う。前のページでは、同じベクトルを別のものさしで測るために、基底を列に並べた行列 \(B\) を使った。

そこで出てきた関係は、

$$\mathbf v_{標準}=B\mathbf v_B$$

である。これは、B座標で書かれた成分を、標準座標へ翻訳する式だった。

しかし、逆向きに知りたいことがある。標準座標で与えられたベクトルを、B座標ではどう書くのか。このとき必要になるのが逆行列である。

1. なぜ逆行列が出てくるのか

基底を列に並べた行列 \(B\) は、B座標を標準座標へ翻訳する装置である。

$$\mathbf v_{標準}=B\mathbf v_B$$

たとえば、B座標で

$$\mathbf v_B=\begin{pmatrix}2\\1\end{pmatrix}$$

と書かれたベクトルが、標準座標では

$$\mathbf v_{標準}=\begin{pmatrix}3\\1\end{pmatrix}$$

になる、というようなことが起きる。

では、反対に、標準座標で

$$\mathbf v_{標準}=\begin{pmatrix}3\\1\end{pmatrix}$$

と与えられたとき、B座標ではどう書けばよいのか。

この問いは、次の形になる。

$$B\mathbf v_B=\mathbf v_{標準}$$

つまり、未知なのは \(\mathbf v_B\) である。これを解くために、\(B\) の逆向きの変換が必要になる。

$$\mathbf v_B=B^{-1}\mathbf v_{標準}$$

ここで \(B^{-1}\) が逆行列である。

2. 逆行列とは何か

ある正方行列 \(A\) に対して、次を満たす行列 \(A^{-1}\) が存在するとき、\(A^{-1}\) を \(A\) の逆行列という。

$$A^{-1}A=I$$
$$AA^{-1}=I$$

意味は単純である。\(A\) をかけたあとに \(A^{-1}\) をかけると元に戻る。逆に、\(A^{-1}\) をかけたあとに \(A\) をかけても元に戻る。

逆行列とは、ある線形変換を打ち消して、元の状態へ戻す線形変換である。

ただし、すべての行列に逆行列があるわけではない。逆行列を持つ行列は、正則行列、または可逆行列と呼ばれる。

$$A\text{ が正則 }\Longleftrightarrow A^{-1}\text{ が存在する}$$

3. 単位行列とは何か

上の式に出てきた \(I\) は単位行列である。二次元なら、

$$I=\begin{pmatrix}1&0\\0&1\end{pmatrix}$$

である。

単位行列は、何もしない変換である。

$$I\mathbf v=\mathbf v$$

つまり、単位行列は、数でいう \(1\) に近い役割を持つ。数なら、

$$a^{-1}a=1$$

で元に戻る。行列では、

$$A^{-1}A=I$$

で元に戻る。

ただし、行列では順番が重要になる。一般に行列の積は交換できないため、逆行列では左右両方の関係を確認する。

$$A^{-1}A=I,\qquad AA^{-1}=I$$

4. 基底変換と逆行列

基底変換では、逆行列は単なる計算テクニックではない。ものさしを変えたときに、同じ対象を別の座標で読み直すための装置である。

基底 \(B\) を列に並べた行列は、B座標を標準座標へ送る。

$$\mathbf v_{標準}=B\mathbf v_B$$

逆に、標準座標をB座標へ戻すには、

$$\mathbf v_B=B^{-1}\mathbf v_{標準}$$

とする。

ここで大事なのは、対象そのものが変わっているわけではないこと。変わっているのは表示である。

逆行列は、変換された対象を魔法のように過去へ戻す装置ではない。同じ対象を、別の座標系で読み直すための逆向きの翻訳である。

5. 戻せる変換とは何か

戻せる変換とは、異なる入力が異なる出力へ行く変換である。

もし、二つの異なるベクトル \(\mathbf u\) と \(\mathbf v\) が、同じ出力へ写ってしまうなら、出力だけを見ても、もとの入力が \(\mathbf u\) だったのか \(\mathbf v\) だったのか分からない。

$$A\mathbf u=A\mathbf v,\qquad \mathbf u\ne\mathbf v$$

このとき、変換は一意には戻せない。

反対に、異なる入力が必ず異なる出力へ行くなら、出力から入力を一意に復元できる。そのとき逆行列が存在する。

戻せる変換と戻せない変換の比較。正則な変換では潰れず、行列式0の変換では方向が潰れる。
戻せる変換と戻せない変換。正則な変換では空間の広がりが潰れず、行列式0の変換では別々の点が同じ像へ重なる。

6. 行列式が0だと戻せない

二次元の線形変換では、行列式は面積の倍率を表す。

行列式が0でないなら、面積は0には潰れない。空間は伸びたり、縮んだり、回転したり、傾いたりしても、二次元の広がりを保っている。

$$\det A\ne0$$

この場合、逆行列が存在する。

$$A^{-1}\text{ が存在する}$$

一方で、行列式が0なら、面積が0に潰れる。平面が直線へ潰れたり、点へ潰れたりする。このとき、複数の入力が同じ出力へ重なる。

$$\det A=0$$

この場合、逆行列は存在しない。

$$A^{-1}\text{ は存在しない}$$
行列式が0であるとは、空間のどこかの方向が潰れているということである。潰れた方向の違いは、出力側からは見えなくなる。

7. 逆行列と逆像は違う

ここで重要な区別がある。逆行列と逆像は違う。

逆行列は、行列 \(A\) に対して存在するかどうかが問われる、逆向きの線形変換である。

$$A^{-1}:W\to V$$

ただしこれは、\(A\) が正則で、ちゃんと戻せるときにだけ存在する。

一方、逆像は、逆行列が存在しない場合でも考えられる。

写像 \(F:X\to Y\) と、出力側の集合 \(B\subset Y\) に対して、

$$F^{-1}(B)=\{x\in X\mid F(x)\in B\}$$

と書く。この \(F^{-1}\) は、必ずしも逆関数や逆行列ではない。記号は似ているが、「Bに入る入力全体を集める」という意味である。

たとえば、射影

$$P(x,y,z)=(x,y)$$

には逆行列はない。\(z\) 成分が失われるからである。しかし、ある点 \((x,y)\) の逆像は考えられる。

$$P^{-1}(\{(x,y)\})=\{(x,y,z)\mid z\in\mathbb R\}$$

つまり、逆行列は存在しないが、逆像は存在する。逆像は一点ではなく、一本の直線になる。

逆行列は「一意に戻す」ための装置である。逆像は「その出力に対応しうる入力全体」を集めたものである。

8. 次に進むこと

逆行列を理解すると、次に自然に出てくる問いは、「戻せないとき、何が失われているのか」である。

戻せない変換では、ある方向が潰れている。その潰れた方向を表すのが核であり、変換後に残った出力側の広がりを表すのが像である。

次のページでは、核・像・階数・退化次数をまとめて扱う。